2017年5月22日月曜日

22日:6年生が壮絶な羽越水害の体験を聞く!

27日は荒川総合水防演習です。全校で参加し、各種の体験や訓練をします。6年生の代表者は閉会式であいさつをします。そこで、羽越水害についてのお話を聞くことにしました。

羽越河川国道事務所の指導官の山本様から御紹介いただき、村上市営あらかわゴルフ場支配人の髙橋様よりお話をいただきました。
子どもたちは、厳しくも壮絶な体験を目の当たりにし、真剣に聞き、メモを走らせていました。
お話の概要です。資料を見ながらお読みください。お話と写真が合わないことを御了承ください。
昭和42年、1967年。当時私は18才。高校を卒業した社会人1年目でした。8月28日夕方、家の中まで水が入ってくるようになりました。午後8時か9時頃有線放送で避難が指示されました。
家にいた家族5人で腰まで水に浸かりながら、避難所である平林小学校に逃げました。しかし、校門までくると、荒川からあふれた大きな水の一波が押し寄せてきました。
なんと、この教室の天井くらいの波です。津波のようです。私達は全員水に飲み込まれてしまいました。私は、必死で泳いだりもがいたりして最後には何かにつかまって流されないようにしました。
流されないで必死になっている時、いろいろな物が流れてきました。大木、牛やぶたの死骸。ぶつかれば死んでしまいます。よけて、ただただ助けを呼ぶことが精一杯でした。
結局、私と姉のだんなさんが助かりました。3人の家族はなくなってしまいました。水が引いて、家に帰ってみると、柱と二階の建物が残っていました。もし、逃げずに家の二階か屋上にいたら助かったかもとも思います。
私は、災害は忘れた頃にやってくる、幸せな時に突然やってくると思います。災害は何も利益にならないとも思います。堤防で8人の消防団が取り残され命を失いました。農家は稲がやられ収入がなくなりました。
私はこの水害を体験し、真剣に考えました。土木、測量や設計の仕事に携わりましたが、災害復旧をしてしっかりとした堤防、橋を作る手助けをしたいと考えました。見習い、資格、先輩や行政の指導を受けました。
今はこうして皆さんにお話ができますが、当時を思い起こすと、水害のトラウマが大きく、荒川を見たくない、この問題に接したくないと思いました。 
私が家族を守れなかった一番の失敗談だからです。先生からしかられる失敗談というレベルをはるかに超えた失敗談です。28日水が増える中で父から「おれは家に戻れない。お前が家族を守れ。」と言われていたのです。 
しかし、羽越水害40周年の荒川水防演習の時は、語りつがなければならないと考えていました。父としてPTA活動をして荒川でかじか取りをしていても水害については語りませんでした。
羽越水害40周年を境にまごにも語って聞かせました。平林中学校の創立70周年の記念講演で中学生にも話をしました。
今の君達は小学生なので、実際に災害にあったら、情報や指導をよく聞き、みんなで行動することが大切だと思います。中学生になると体も心も大人になります。そうしたらやはり、家族や地域を守ることができるようにならなければいけません。
私は、水害はだれかが悪いのではない、「くやしい荒川」と思って、もっとしっかりした堤防、大きな川を望み、川に関わる仕事に巡り会いました。仕事を通して、水害を伝えて、地域に貢献できるようにしてきました。
みなさん、27日の荒川総合水防演習ではしっかりと体験をしたり学習したりしてきてください。 質問はありませんか。
「水害があった時、おなかいっぱい食べられましたか。」二日後くらいには、どこからともなく舟でたきだしが運ばれてきました。しかし、私は家族を思い、家族をさがすために必死で、ごはんものどを通りませんでした。 
髙橋さんお話ありがとうございました。貴重な壮絶な体験談を受け止め、しっかりとした学びにします。